井手弁と河内弁

言葉の地域性っておもしろい。
井手町と、周囲の町とでは結構異なる。
世代によるものもきっとあるんだろうけど
これだけ【限定された地域】で周囲と違う言葉になるのがオモシロイ。


いろんな説があるだろうけど、
この浸透具合からいっても ここ100年どころじゃないだろう。


町史の中に、応仁の乱のころ井手町多賀北古市場・南古市場あたりに
西軍・畠山義就派の誉田氏以下『河内勢』『古市勢』が布陣したとある。


この多賀の【古市場】という場所、
昔は 丘のような感じだったと言われている。


木津川の港として『市』が開かれ
随分賑わい、この小さな多賀村に末寺を数ケ寺もつ安楽寺
この地にあったと言われる。
豊臣秀吉の時代に、治水などを目的とした大規模土木工事が
数多くおこなわれ、 この『古市場』の住民も寺も
強制的に移転させられ 丘状の古市場の土を使い
木津川の堤が造られたという説がある。


ちなみに現在多賀の東部にある安楽寺は『市場山安楽寺』という。



・・・で、応仁の乱のころの古市場はどんな感じだったんだろう?
私にはわからない。




以前、井手町教育委員会 学芸員の茨木さんとこの話をしていたら


それで井手は河内弁になったんちゃうか!

っておっしゃった。


おもろい人や(笑)




応仁の乱といえば 10年以上続いた消耗戦。


どれくらいの期間 陣があったのかはわからないけど、
単純に考えて 戦のために集まった大勢の人たちが
長期間そこで生活するんだから


『地域交流』があったに違いない。


だったら、多賀地区の方がより河内弁になりそうなもんだけど
井手地区の方がより顕著に河内チックだ(笑)


ってことは 当時の井手城首 『井手新四郎』がその配下についたのか
どうなのかわからんけど、


一体化していたとすれば説明がつく。


河内弁は 個性的でおもしろく 周りを巻き込むチカラがあると思う。



実際、井手町のメンバーで宴会やってたら とにかく≪目立つ≫ (笑)



消防でも、商工会でもそうやったし
おそらく役所の人同士でもそうだと思うな。 きっと。


宴会に あの言葉はいいね。



明るく 勢いが出るし ノリもよくなる。



きっと 一緒に酒を酌み交わすうちに 強力な伝染力で染み付いたんだろう・・・
ってのが私の仮説。


茨木さんは、 今まで 橘嘉智子(諸兄の曾孫・檀林皇后)の
母親の出身地が河内だから 河内弁に近いんじゃないか?って
思っていたらしい。


・・・でもねえ、 嵯峨天皇の皇后ともなった そんなお偉いさんの言葉が 
はたして一般庶民に定着しただろうか?


井手に住んでた人の大半が面識なかっただろうし。



実際 現在千代田区に住んでる人で天皇陛下はじめ皇族の方々と
セケンバナシした経験のある人なんて・・・・


ねえ(笑)




・・・・で、私も井手の歴史を結構調べてみたけど
井手と河内の関係を示す【トップレベル】の史実だと思うんだけどな〜。



そこで!!



前々から思ってたこと、


ゲンジ(クワガタ)の名前(笑)



井手地区と 多賀地区で全く違う。


多賀と青谷は比較的似ている。


田辺や山城 田原・木津と ある程度は通じる。


しかし!! 井手地区だけは全く違う。


・・・・井手だけは独自のものがあるわけだ。




ってことで興味が出てきたのは河内方面の 『どこかの地域』と似てるかも?っていうこと。



もし、 応仁の乱の際 井手町に来ていた【河内勢】の出身地域と重なれば


大変面白いんじゃなかろうか(笑)




言葉もそうだけど、 食べモノや 風習でも 共通のモノが見つかるかもしれない。



もしこの仮説が正しければ きっとその町も
周囲に比べて 異なる文化を持ってるにかもしれない。



ほんまに・・・みつかったらオモロイやろうな〜。




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