井手町『史跡めぐり』に行きました。

今回は、井手町商工会青年部『部員が対象!』です(笑)
みんな、地元のこと 知ってるようで知りません。
学校で習わなかったから、
覚える機会なんて 全く無かったんだ! ってことが
証明されました(笑)


いやいや 実際 本当のハナシですよ。
部分的に知っていても、全部知る機会なんてね 
ありませんでした。


小中学生のころに、地元の 『イイトコ!』
イッパイ知る機会があったら、 きっと
みんな 『 歴史通 』 になってます(笑)
学校の授業も オモシロク なったに違いありません!
やっぱり 親近感 って大きいです。


今日は、井手町ボランティアガイドの3名様にご協力いただき、
地元向け『特別バージョン』にて解説いただきました!

まずは、井手町商工会館前をスタート!・・・全行程『徒歩』です。

泉ヶ丘中学校北側の、『この桜の木!』
この木が、一番古いらしいです。
水害前からあったらしいですね。
水害前、桜の木は ほとんどなかったらしいです。



そして、戦時中 今の泉ヶ丘中学校の敷地に
グライダーの訓練生の宿舎があったらしいです。
まあ、予科練の方たちね!
そして、グライダーと言っても 『人の乗るタイプ』のモノで
各地から 多くの方々が集まられていた らしいです。
現在、井手町在住の方で グライダーに乗った経験のある人!
まだ、結構おられますよ!
今のうちに いっぱい聞かなきゃっ! って思いますね。


訓練生の中には、沖縄出身の方も多く、
マムシをとって『〇〇〇』にされた らしいです。
ハブに比べたら、『 へ 』みたいなモンだったんでしょうか?

そんな説明を聞きました。


そして、駒止橋跡

ここで、藤原俊成が、


駒とめて なほ水かはむ 山吹の 花の露そう 井手の玉川


と詠んだらしいです。
藤原俊成は、小倉百人一首にも登場する人らしいです。
また、藤原俊成は 小倉百人一首をまとめた 藤原定家の お父さんらしいです。


『こまどめばし』
この場所にかかっていたんですね。
私も 中学生の頃残ってましたよ。
木製の橋がね。 風情がありましたよ。
やっぱり ホンモノの木は良いですねぇ。

対岸に、 橋の遺構がありますよ。


新しく出来た橋は、木製ではありません。

少し、さびしい気はしますが、 時代なんですかね〜。


玉川沿い JR西側の 『やまぶき』の石碑
コレ ・・・ 読めます?

みんな熱心に聞いています。
ガイドさんも『アツイ!』です。


これで『やまぶき』って読むらしいです。

これも『やまぶき』って読むらしいです。

・・・・・・・ガッコーで、 習ってねえヨ!
って言ってみたくなります(笑)
難しい字ですね!


今日、取り付けたばかりの 提灯 が見えます。
なかなか イイ 雰囲気ですね!


六角井戸です。
そのむかし、『六角井』と書いてあったらしいです。
この井戸の歴史は古く、井手町の水道が整備されるまで
およそ1000年以上もの長きにわたって、使われていたらしいです。
・・・・・ス・ゴ・イ・で・す・よ・・・。

まわりを囲っている 石!
スッ・・ゴク ! 古そうです。


中は こんな感じ。
ボランティアガイドさんのお1人がおっしゃってました。
その昔、毎年中まで入って 掃除されてたらしいです。
・・・でも、他の人が掃除されてるのをご覧になられてた との事。

危ないので 防護用の 設備がされてますよ。


六角井戸近くの 安養寺さん

シブイ! 鬼瓦です。


六角井戸から南へ 突きあたりを 左(東)へ

この石垣は 大変 大昔にできた石垣らしいです。


その昔、この石垣下まで木津川だったこともある らしいです。

石垣上からの 眺めです。


次は 地福寺さん。

鬼瓦の上に シャチホコ(鯱鉾)ですヨ!
ご近所の お寺では 大変めずらしい らしいです。


『有王山』と書かれた額がかかってますよ。

このお寺は 元々、 井手の奥地 現在の有王地区(田村新田)にあったらしいです。


『有王』という名前は、橘諸兄(たちばなのもろえ)の子孫『橘有王(たちばなのありおう)』に由来するらしいです。


地福寺さんの瓦には、『橘の紋』と『有王山』という字が描かれています。

ボランティアガイドさんに、『地福寺の檀家さん』がおられまして
おっしゃられてました。
以前、 屋根をふき替えた際、『特徴的な瓦』と『古い軒瓦』を
最大限再利用して 吹き替えるように されたらしいです。
きっと タイヘン 立派なおこないだと思いますヨ! 


橘諸兄と長谷川〇〇と刻まれた 石塔

右側は 大変古そうです。
カドが ズイブン丸くなっています。
そして『橘諸?』と刻まれています。
目視でわかりますよ!


その左側には、
右に比べて 比較的あたらしい石塔です。
『長谷川〇〇』と刻まれています。
ガイドさんによると
この 長谷川〇〇という人、
橘諸兄の数代後の子孫らしいです。
自分が死んだら 橘諸兄の墓の横に葬ってほしいと・・・
言ったらしいです。


う〜ん・・・なんで そんな昔の話がわかるの?


最近の遺言で
『□□□』と一緒のお墓に葬って!』なんて話!
ま〜〜ったく! 広がりませんけど?


不思議です。


昔の人は リチギ らしいです。


橘の字は 写真でもハッキリ見えますよ!

石碑の 古さはモチロン ガイドさんの 『手』 も
時代を感じさせます。
オモイものを感じますね。


岡田池周辺です。
この周辺を開発した先人の石碑です。

これが岡田池

釣り人がおられますね。


この池は人口の 灌漑用の池で
かなり昔から 稲作の為に利用されていたらしいです。


この池の東岸に 井堤寺の瓦を焼いた 窯跡があるらしいです。


・・・井手って、瓦の窯跡 他にもあります。
奈良 大安寺の瓦を焼いた窯跡など。


井手町は、 瓦など、ヤキモノに適した『 土 』が 採れたらしいです。


お次は、『井手火山灰層』

1億数1千年前に 長野県の山が噴火して出来た 火山灰の堆積層らしいです。

かなり細かいので、 その昔 天皇陛下の お召列車の『菊のご紋』を磨くのに使ったらしいです。


橘諸兄公旧跡
こんな坂道を 登ります。

74歳まで生きておられたらしいです。
長生きですね。 あの時代で!

橘諸兄公 石碑

子供が ナニゲに いいアジ!出してます(笑)



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